個人的な言いたいこと
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●曽我ひとみさん家族の問題
曽我ひとみさんの家族再会の報道がおびただしい。このおおむね同情的な過熱気味の報道を僕はあまり好まない。彼女の二人の娘は何をもって日本人なのだろうか。ジェンキンズ氏という配偶者は紛れもなくアメリカ人である。彼らが日本に帰国(?)することが、どのような理由で正当化されるのか、はなはだ疑問に思う。「人道上の理由」という理由は、それを国家が使用するとき欺瞞に満ちたものとなる。なぜなら戦争を行使するのもまた国家であるからだ。およそ人が他人に向かって「人道的」と称して行う行為ほど欺瞞に満ちたものはない。
この過熱気味の報道を見ていると、「世論」というものがいったい何なのか考えさせられる。そもそも、それは健全なものなのだろうか。あるいは正しい意見の集合(よって、正しい見解)なのだろうか。僕は昔からこう言って人からひんしゅくをかってきた。「知的な人と、愚かな人とどちらが多い?当然、愚かな人の方が多いよね」この考えは今も変わってはいない。人類の歴史を振り返っても、僕たちの文化は常にそういう構造をしてきたと思える。つまり、一握りの優れた人物の発明、発見や指導のもとに、人々はそれらを享受してきたのだ。同時に僕の主張はこうだ。愚かな人がいることが悪いのではない。愚かな人が優れた人と同等の権利を主張することに誤りがあるのだと。つまり、その結果としての現在の世論のことである。
政治的判断というものが、必ずしも正しいとは限らない。それは独裁政治の例を見るまでもなく明らかだろう。つまり、世論は正しさを維持する力も能力もないのだ。たとえば民主主義というシステムが何をもって最善だというのだろう。僕の考えでは、それは資本主義にとって最善なのだ。なぜなら、消費者の知的レベルなどその商品の売れ行きとは無関係であろうし、いや、むしろ賢明な消費者は売り上げ増大の何の足しにもならないだろう。もし民主主義というものが、悪しき平等主義のような、全ての人々に等しい権利を唱えているのなら、それはもはや指数関数的に増大する人口に対応できなくなるだろう、過去の遺物のような幻想なのだと僕は言いたい。
曽我さんは、なぜ(その姓が)曽我さんなのだろうか。だって旦那はジェンキンズなのだから。こんな単純なことを、人々はなぜ問わないのだろうか。「曽我ひとみ」という一個人に日本政府はなぜこれ程までに、(税金を無断で使って)援助をするのだろうか。拉致被害者はまだ幾らもいるというのに。そして政府が援助すべき人々は数え切れないほどいるというのに。彼女が北朝鮮で結婚し二児をもうけたという事実は、悲惨さをはかる尺度としてはあまりに優しすぎる。きっと拉致被害者のなかには決して妥協せずに死んでいった人たちもいると想像するのは容易なことだ。状況に甘んじた彼女を責めるつもりはないが、さりとてそれは決して褒められた姿勢でもない。「やむを得ない」理不尽な状況は倫理を超えていると思われる。宗教が必要なゆえんでもある。それでも、ある状況で自決した人々が実在することを思えば、彼女は(妥協したとは言わないが)したたかに生きた、それだけのことではないだろうか。
曽我ひとみさんとその家族は、結局これで本当に幸せになれるのだろうか。この社会が基本的人権として自由意志を重んじるというのなら、彼らは依然、拉致された状態と何も変わってはいないと僕には思われる。つまり、かつては北朝鮮政府に、そして現在は日本政府の意向によって彼らは生かされているからだ。「自由意志」という言葉の意味は単純ではない。なぜなら「自由」という意識は、そう思うこともまた「自由」という言葉の中にあるからだ。ジェンキンズ氏はアメリカに帰りたいとは思ってはいないのだろうか。北朝鮮に生まれ育った彼女の二人の娘は、本当に日本に住みたいのだろうか。あるいは彼らが何らかの意図をもって、北朝鮮からの密命を抱いて日本に移ってきたのではないと、誰が保証するのだろうか。日本の世論はまことに楽天的である。