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I- #01「六喩」 Rokuyu
I -ライナーノーツ Liner notes
〜JUN FUKAMACHI age29
1975 アルバム「六喩より)

『六喩』

〜「美」への軌道計算の為の方法序説と副題を付けたい様な「六喩」についての小考察。〜
[六喩]…諸行の無常なことを 夢・泡・雷・露・影・幻 の六種に比したたとえ。
 

音楽の中に居る時のみ、僕は自分の存在を喜ばしいものとして感じることが出来、また深い悲しみとして自分の心を語れるような気がするのです。僕の人生は音楽を知ることと同時に始まりました。そしてきっと僕は音楽と死ぬまで最も多くの時間を過ごすでしょう。そんな軌道みたいなものが最近見えてきたのです。
 

「もう無駄な時間は一瞬たりとも使えない」という人生への緊迫感は僕という人間の精神構造のサイクルが決して長くはない事を如実に示していると思われます。短気にして神経質。精神的強さを誇示するあまり、自分の身体は全く肉体労働(スポーツを含む)に向いていないと固く信じている。自己顕示欲強大にて思いやりの情に欠け、合理主義に徹することを望みながら、異性関係においては全ての旗を投げ捨てるという大胆な行動(むしろ人嫌いに近い)及び「キザ」は僕の最も外面的特徴だと思っています。
 

自分の姿勢がこれで良いのか、一体自分はどんな生き物だろうかと自問するのは夜毎の儀式のようですけれども、その質問がされると同時に常に自分を正当かする為の理屈を作る思索に奪われてしまう有様です。どうしてもっと単純素朴に大らかに生きられないのだろうと思うやいなや、そうでない方が良いに決まっているという口実作りに余念がないのです。(これは僕の分析研究によれば、ほぼ全く頭脳のある部分の独自の決定による一方的且つ独裁的行動と見られるのです。)この一方的行動を起こす脳のある部分 ----これを仮にSとします----- の持つ「目」つまりSの精神的視覚情報収集器であるにもかかわらず、肉体的な僕達の「目」と全く同じ格好をした物が、僕から半径3メートル位離れた所から常に、本当に休みなく寝ている時は夢にまで現れて僕を見つめているという感じ。そしてSが僕に強要する行為思考は、時ある限り音楽に接しているという事です。そしてありとあらゆる分野で表現された「美」との対話。「美」へのひたむきな愛と献身。自己の音楽的使命感と作品との因果応報。これはちょっと言いにくいことですが こんな感動的論理 を真顔で発表出来るように訓練することなどです。
 

僕は「美」というものをこんな風に受け止めています。およそ人がその人生のいかなる瞬間にでも、美しい と認識した時のその知的感動を「美」と定義するならば「美」は本質的に美しいという事です。「美」は不変、不滅であり又いつでもどこでもそして誰にでも認識出来る。ただしその存在のみある場合は人間には感知できない。普通日常生活においてそれが感知できるのは行動や思索の結果として、極くまれに現われる。その本来的に自然発生的な「美」の認識と感動を人為的に行う。つまりある種の触媒となるような音楽を作ってみたいのです。それはまるで「美」のエネルギーを蓄積しているように見かけ上見えるでしょう。しかもその保有量は完成された作品に関しては全く僕達の人生のような短いスケールでは計る事の出来ない程膨大なものです。(先日僕が突然入手した信頼すべきすじからの報告によりますと、その蓄積されたエネルギーの放出率及びその保有量は、なんとあの太陽のそれと全く同じであり、故アインシュタイン博士の最近発見された日記の一部から、すでに彼がその一般相対性理論を精神界においても証明しようとしていた事が明らかになった様子です。)そのエネルギーを蓄える為に僕はあらゆる努力をしなければならないでしょう。そしてなおかつ最短の道程でなければならないのです。そしてその秘密は日本文化を支えてきた客観性個人主義の持つ精神的なエネルギーではないかと思うのです。
 

前に述べたもう一つの目。第三の目の存在の認識とその重圧が日本人独特の個人感ではないでしょうか。常に僕達は自分の目以外にもう一つ、恐らく多少違った角度(それは次元とも言えるような、黄道上の角度のような感覚)を持ったもう一つの視界を持っているのです。そしてその目は自分を見つめる事しかしないのです。(日本人の美意識や、その独特の精神構造。そして西欧のそれらとの比較文化論などは恋愛問題の次に最も僕の興味在る所なのですが、今は長くなりそうなので止めます。)ただ最近、岡潔さんの「日本民族」という本を読んで日本人の「美」というものに対するアプローチへの僕なりの新しい発見があった事を記せずにはいられません。それは日本人の美を表現しようとするアプローチのプロセスそのものにさえ、我々は「美」の存在を要求したいという、アプローチの方法です。そしてその「美化」されたアプローチを私達は「心」と名付けていたようです。その「心」と僕の感じている「第三の目」こそが同じものを指しているのではないだろうかという発見です。あの表情を殺した僕達日本人の顔こそ、常に第三の目によって見つめられている事を意識している証拠ではないでしょうか。「心」の最も一般的な表現は「思いやり」といった形で示され----- それは「思いやる」事によって「第三の目」からの重圧を分かち合う-----その窮極表現として「わび、さび」があるように思われます。何故、僕達日本人は何事につけひかえ目を良しとしたのでしょう。何故、楽しいときに笑う事を禁じ、悲しい時に泣かぬ事を美徳としたのでしょう。「心で泣く」理由は一体何だろう。
 

そして常に「日本人とは何だろう」と問う事そのものが、今や日本人の大きな特徴の一つとなっていると聞きます。自問の姿勢。客観視という言葉の意味合いとは少し違った、言うなれば被視感(第三の目に常に見られている感覚-----ヒシヒシとも表現する)とも言うべき感情こそ日本文化の根底に流れているものではないでしょうか。(少し見栄を切りすぎたかなあという危機感。)
 

僕は今回、自分の音楽作り上げるフォルム(この場合音楽形式という意味ではなく音楽の感覚的形式といった意味に受け止めていただきたい)に、この被視感を取り入れてみました。その一つの例がタイトルです。曲やアルバムのタイトルは音楽の送り手にとっても受け手にとっても一つのイメージの囲を作ってくれます。(だってもしこのタイトルがガールハントなんて名前だったら色々な意味で随分印象が違うと思いませんか?)「六喩」という言葉は仏教用語で、この世が諸行無常である事のたとえとして六つのものを指し示しているのです。それは「泡」「露」「影」「夢」「雷」「幻」の六つです。そして勿論今回のこの「21stセンチュリーバンド」のメンバーが六人である事にも由来している事は言うまでもありません。「六喩」という言葉の持っているイメージ(もっとパラドークスな見方をすれば、僕が「六喩」という言葉を選んだ事から派生する一つのイメージ)が作ってくれる世界が、この音楽にとって住み易いに違いありません。
 

もう随分書いてしまいました。あとはただ聞いてほしいだけです。そして出来れば没頭して下さる事を望みます。その決意が僕の音楽への最後のエッセンスとなるのです。(ここまでさんざん説明しておいて)僕は自分の音楽に言葉での説明は不要だし大嫌いです(位しゃあしゃあと言える様になるほど、僕はもう大人の仲間入りです)。
 

JUN FUKAMACHI age29
(1975年アルバム「六喩」ライナーノーツより)
 

 

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