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「天才『反抗児』の呟き」
  朝日新聞出版「AERA」村尾 国士

  - 1988年11月 朝日新聞社出版「AERA」より抜粋 -

「今日は何を弾くか、自分でもわからないんだけど、ま、始めようか」 キーボードの前に座ったとたん、深町の指が鍵盤の上を走り始めた。

日本のシンセサイザー奏者の草分けであり、かつてキーボードプレイヤー人気投票第1位にも選ばれた華麗なテクニックは年月とともに一層の円熟味を増し、透き通るような音がライブハウスいっぱいに広がる。指ならしのように一曲終えると、即興演奏の深い世界に没入していく。聴衆に即興でハミングさせたメロディを受け、そのフレーズをモチーフにたちどころに即興で曲を完成させてしまう。基調を反復しながら自在に転調し、いとも軽々と緻密で美しい旋律を紡ぎだす。演奏と作曲の両方に秀でていて初めて可能なこの即興演奏こなせる音楽家は、日本にほとんどいない。国際的にも知られる作曲家、三善晃が、深町純を日本では稀な「ミュージシャンコンプレ」(完全なる音楽家)と呼ぶゆえんである。

3歳からピアノの教育を受け、来る日も来る日もピアノに向かう生活を以後数十年続けた。高校に入学してから、深町少年はクラシックだけが音楽ではないことを知る。プレスリー、ビートルズ、日本でもロカビリーが爆発的に受けていた。学内でバンドを結成した深町は、ポップス、ジャズ、ロックとあらゆるジャンルを吸収した。「僕にとって音楽とはそれを聴くと胸がドキドキしたり、涙が溢れてくるもの」という持論がこの時期に芽生えた。同時にバンド仲間が「ジャズでも何でも、一度聴いただけですぐにピアノで弾いてみせた」という天才ぶりを発揮した。

東京芸術大学音楽部に進学。「他人が作った曲ばかり演奏するのが嫌で」作曲科を選んだ。作曲科同級生の國越健司氏は、「ずば抜けた存在でしたね。まず、ピアノが段違いに上手で声楽科の学生が発表会のピアノ伴奏に、ピアノ科じゃなく、深町君を指名して頼んでいましたよ」。夫人の國越純子氏はピアノ同期生だが、「芸大で毎年、芸術祭というのが開かれていましたが、深町さんの演奏を聴いて、これぞ音楽と思いましたね。私たちの肩を叩いても埃しか出ないけど、彼の肩を叩くと音楽が飛び出てくるって、皆、言ってました」

演奏技術だけではない。当時、作曲を指導した三善晃氏はこう回想する。「今もよく覚えていますが、一年のとき、全員に室内楽の作曲課題があったんです。深町君の作品を見て、驚倒しましたよ。実に新鮮な美しい曲で、他の学生の見かけだけ新しくて未熟な作品とは全く違っていました。当時から、凄い音楽家でした。」すでに自分の音を持つ音楽家だったのだ。

在学中に劇団四季の音楽を手掛け、注目されるなど、早くもプロの音楽家として活動していた深町は、「芸大卒の資格なんか必要ない」と、卒業10日前に自主退学。「芸大で学び自ら志してポップスの世界へ飛び出したのは深町が最初でしょうね、後に続く坂本龍一などの先駆けになりましたが、音楽的ボキャブラリーの実に豊かな彼は、それらを次々に開花させましたね」作曲科で2年先輩の池辺晋一郎氏がそう語るように、以後の深町は日本の音楽シーンで初めての仕事を次々に手掛けた。

最初は71年に発表した「ある若者の肖像」。作詞作曲を始め、演奏に歌唱、すべて深町自身による、それも日本初のピアノ弾き語りのアルバムだった。このアルバムに衝撃を受けたのが、当時まだ無名だった南こうせつである。「聴いたとたん、ぶっ飛びましたね。あの頃、エルトンジョンを始め、すごいシンガーソングライターが世界中で出てきましたが、それに匹敵する人が日本にもいるんだと驚きましたよ。実際に深町さんに会うと音楽に対する情熱が凄い人で、アーティストとして尊敬し影響を受けました」

作曲、編曲、演奏の依頼が相次ぎ引っ張りだこになった。井上陽水、沢田研二、山口百恵などトップシンガーのステージやアルバム制作を手掛けた。さらに映画音楽、テレビドラマ、ミュージカル、CMの音楽制作と活動の幅が広がっていった。その活動を支えたのがシンセサイザーだった。

71年頃、アメリカから「夢の電子楽器」として初めて輸入された3台のシンセサイザーのうち1台が深町に託された。始めは暗中模索だったが、抜群の演奏技術に加え、少年時代からラジオを組み立てるなど「科学にも強かった」深町には格好の楽器だったのであろう、たちまち自家薬籠中のものとした。シンセサイザー奏者の第一人者となった深町はロックキーボードプレイヤーとして活躍、75年にはジャンルの垣根を取り払うフュージョンの草分け的存在となり、日本初のアルバムを発表。こうして日本の音楽業界のシーンを担い、形作っていった。当時、雑誌のインタビューで深町は「芸術家かどうかは、歴史が決めると思う。僕は音楽史に残ると自負しているけれど、それはあくまで結果であって、目的ではない」と答えている。

 

 朝日新聞出版「AERA」村尾国士 

- 1988年11月 朝日新聞社出版「AERA」より抜粋 -
 

※役職名は、当時のものをそのまま掲載させていただいております。(敬称略)
 
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