「家はあらゆる人を満足させるものでなければならない。美術品はいかなる人をも満足させる必要がない。美術品は武術家個人の問題である。家はそうではない。美術品は、何かのために使う必要など少しもなしにこの世界に発表されるものである。家は目的に仕える。美術品は誰にも責任を負う必要はないが、家はあらゆる人に対して責任がある。美術品は人々を慰安(満足)から引き裂くことが望みである。家は人々の慰安に役立つものでなければならない。美術品は革命的であるが、家は保守的である…。家は美術とはなんの関係もなく、したがって建築は美術の一つではないのではなかろうか。それが本当だ。」 「音楽は何を為し得るだろうか」と問うことが僕の方法の全てだった。「為し得ること」を理解することによって僕の「為すべきこと」を発見したかった。そしてそれは僕自身の「為し得ること」への探索も必要とした。これは方法論であり、思考の技術であり、知識である。そしてそれらを手にすることが、「音楽すること」の出発点であると思っていた。そして出発点を見い出せないまま職業音楽家として生活するという奇妙な二重構造が数年続いた。方法論は多くの発見といくつかの重要な示唆を僕にもたらしたが、肝心の出発点は全く意外な方向から忽然と現われた。そしてそれに僕が気付いた時、僕は出発点を後ろにしていた。ここで「出会い」という強烈で神秘的な現象を語らなければならない。それは人間が理解し合う手段として自ら持っている能力のひとつであり、言語の領域の外にある。僕が日本人であり、彼が米国人であり、従って共通語を持たない。しかし確実に彼は僕に重要な答えを示してくれた。僕は彼に何も質問しなかった、何も求めなかった。彼は何も答えなかった、何も与えなかった。ただそれは、2日間という短い僕達の共に過ごした時間の中で常に示されていた。既にそこに在ったのだ。 理論は現実を理解する方法である。そして理解されたものの総和が世界である。世界の量が示すものは可能性の限界である。現実を理解する「私」は現実の中に存在しない。「私」は有限の世界に存在する。体験は現実を会得する方法である。そして会得されたものの総和が「私」である。知識は世界の姿であり、知恵は「私」の姿である。 もう一つの衝撃を話しておかなければならない。それは本を通じて一人のドイツ人からもたらされた。音楽の方法論に何の解答も得られなかった僕は、論理の意味への疑問と不安を抑えることが出来なかった。役割が違うのだ!! 彼は言う。論理は答えることが目的ではない、示すのだと。立てることの可能な質問は全て答えられる、つまり無意味だ。論理は思考し得るものと思考し得ないものとの間に境界線を引くことによって(無意味なものと無意味でないものとを)示すことが出来る。音楽創造に従事する作曲家や編曲家のしていることは主に思索である。彼等は非常に論理的な音列の中に、真の音楽とそうでない音楽との境界線を示そうとしているのだ。多くの演奏家がある練習期間が過ぎると、譜面を見なくなるのは、それが示していること理解した後は捨て去らねばならないことを思い起こさせる。示された美の基準は演奏家によって生きた真の音楽となる。そして演奏家のなすべきことは、(語り得ないがために示された)規準に理論や思考することなく感応することだ。君自身が楽器に、いや音楽そのものになるのだ。君は音楽を書けない。それを示すことが出来るだけだ。君は音楽を作れない。 何かが失われようとしているこの日本の乱れた音楽界とその美意識に、僕は戦いを挑まなければならない。 |
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