音楽は本当に、今あるのだろうか。音楽は、それが音楽とそうでないものを、区別しているような、その本来の意味を、依然持っていると言えるのだろうか。「音楽」という言葉が存在し、その語の含意するものが認識され、機能していることも承知したうえで、それでも、自問せずにはいられない。僕たちはもまだ、それは「誇り」や「真実」などと同様に、それを手にしていると、主張できるのだろうか。
いったい誰が音楽を保証し、何が音楽家たることを決定するのだろう。もはやマスメディアのもとに、聴衆とは一般大衆以外の何者でもない。聴衆と共にある音楽が、聴衆の質の圧倒的な低下による悪影響を、どうやって回避するというのだろう。今や音楽を制作し販売し、人々の感性を制御することさえ、厭わないようにみえるレコード産業。音楽が大衆の中にのみ存在する時の、その危険な力を、「その管理を誤れば、国家の存続に、重大な危険を及ぼす可能性がある」と、明確に述べたプラトンの危惧は、全く現実のもののように思えるのである。
僕が、現代の職業音楽家の一人であることは、間違いの無い事実だ。証明書類の職業欄に、作曲家あるいは演奏家と書くとき、それで何の不都合も無い。また、道で出会う近所の人達に、僕が音楽家でないと言うことは、むしろ困難であるとさえ思える。しかしながら、その正しい意味において、(音楽の歴史の中で、かつて音楽家と呼ばれた人達と、現代の音楽家とを比べてみるがいい)、僕は断じて芸術家ではないし、さらには、音楽家ですらないことを、そして、その差異のいかに大きいことかを知っている。
僕という一個人が、音楽家ではないという、そのことは大した問題ではないが、ある社会なり国家という、大規模な集団にあって、音楽家でない者が音楽家と思われ、その作品なり演奏が、音楽としての鑑賞の対象になっているとすれば、いささか奇妙な感じがしないだろうか。さらに粗悪なものが氾濫し、未だ何も判断力を持たない、無垢な子供達への、サブリミナルな側面をも含めた影響を考えるとき、これがいかに重大な事態であるかは、容易に想像できるだろう。
今や音楽は、いたる所にある。特に都会では音楽を耳にせずに過ごすには、かなりの努力すら必要だ。そのうえ音楽はそれ自身だけでなく、あらゆるアミューズメントに利用される。そこでは音楽を聞き流すこと以外、音楽から逃れる術はない。今こそ音楽を愛することが、何よりも必要であるというのに、その無尽蔵ともいえる多量の音楽を前に、もはや無関心にならざるを得ない人々は、確実に、音楽を失っていくに違いない。そして、一つの芸術を失うということの、その文化に対する真意について、未だ誰も何も言わない。
君は今、このCDを手にしている。それでは君は、何を買ったつもりでいるのだろう。直径15センチ程の、アルミ蒸着の、プラスチック板を手に入れたのだろうか。あるいは、あたかも何かの設計図、あるいはアルゴリズムのような、獲得を可能にする、手順や手続き。そう、未だ見ぬ音楽の痕跡を、手にしたと言うのだろうか。いや、(きっと、君は言うだろう)確かに私は、音楽を買ったのだ。それは君が、私は恋人を買ったと、言うことと、どれほど違うのだろうか。
実は、音楽を買うことなど、誰にもあり得ないことなのだ。いや、こう言うべきなのかも知れない。買うことのできる「音楽」は、買うことのできる「心」同様、それ程大したものではないだろう。買うという行為は、送り手と受け手との間に、金銭というバッファ(断絶)を設ける。しかし、音楽はその受容の最後の瞬間まで、その双方による、歪みのないハーモニーを必要とする。(金銭では)買うことのできないものが存在することは、誰もが認めるだろう。それでいて、貰うことより買うことの方が、なにか正当で異論がないように見えるのは、安穏とした日常生活に蔓延する、悪しき資本主義というものではないだろうか。
音楽が商品となった時から、音楽から失われたものが、ありはしないだろうか。物だけが商品になるわけではない。人の行為もまた、労働という名の商品となる。労働するのは人の特徴である。それはかつては、飢えることから逃れることであり、現代においては、社会の担い手であり、人生と同義語でもある。勤勉、精進、忍耐、およそ道徳的なものは、よく労働する方法にみえる。ホイジンガーがヒトを「ホモ・ルーデンス(戯れるヒト)」と呼んだとき、戯むれとは、労働、その必然的で有意味なものに対する、偶然的で無意味なものの総称であった。それが「戯れ、遊び」であるとき、それは商品になり得ないのだ。
行き当たりばったりに楽しむ。努力が嫌いで、無計画。牡丹餅の棚から落ちてくることを疑わない。それが僕なのだと、いつからかそう思うようになった。自然的であること、つまり人為的であることを、極力排した人為を、「上品」と称え、何事も過多であることを嫌うことが、「粋」であることは(日本人である)僕には別段、奇異でも不思議でもない。「戯れること」、これが即興演奏とモーツァルトにつながる、と言えば、それは多少気恥ずかしい。けれども、戯れることが象徴する、その奔放無為なもの、未知なるものが、モーツァルトを通して、僕に遊べと、真摯に遊ぶことを求めていた。
造らないこと。ありのままであること。一生懸命にしないこと。楽しむこと。これらのことが、このアルバムで完全に為されたわけでは、勿論ない。しかしながら、全く無意味だというわけでもない。「個人的なるものの声を、リプレゼンターとして、表象=代弁する義務がある」という、W・サイードの言葉に従えば、ここには、表象=代弁する試みが、ささやかながらも、なされているからである。
孤立するか迎合するしかない、というなら、よろこんで孤立しよう。そこに身を投じる意志の美しさが、僕をそう誘惑して止まないのだから。このアルバムを、多くの人が楽しむことなど、僕は決して望まない。むしろほんの少数の、それも、同様の関心と危惧とを、一度でも自分の問題としたことのある鋭敏な心に、何かが想起(リプレゼント)されることになれば、それで僕は十分だと思える。それを意味あるものとして、僕が受け継いだものを、次なる世代の君に手渡せるならば…。
深町 純
P.S
なお、全てのピアノのテイクは、修正や追加を一切行っていない。つまり、採用されたテイクの録音時間は、その再生される時間に等しいというわけだ。また、この録音のための、特別な準備(但し、ピアノは考えられる限り入念に、愛をもって調整された)、構成され書き記された編曲(予定された音列)等も、一切行われなかった。考えられる限りに不用意で(?!)、無防備な、そして一般的な意味での、無責任な録音だったことを、最後に記しておきたい。
JUN FUKAMACHI age50
(1996年 アルバム「Variation Of "Variation"」ライナーノーツより)