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「鬼才ピアノ/シンセサイザー奏者の偉大なる功績」
  CDジャーナル誌 鈴木 崇正
  - 2011年1月 CDジャーナル誌より-

『J-フュージョン黎明期にもたらされたNYの洗練』
 

 作家・五木寛之は idenntity(アイデンティティ)を、”生きざま”と訳したという。辞書には「同一性」「主体性」「存在証明」などとあり、ピタリとくる日本語がないところをみると、日本人にアイデンティティは似合わないとさえ思える。しかし、深町の場合は腑に落ちる。彼の音楽人生を思うとき、そのアイデンティティは”生きざま”と呼ぶにふさわしい。

 1971年『ある若者の肖像』でデビュー。シンガーソングライターとしてキャリアをスタート。その一方で舞台やテレビの音楽で才能を発揮し、作曲家、アレンジャーとしての仕事が注目された。深町の音楽がインストゥルメンタルに大きく舵を切ったのは75年、21センチュリーバンドを率いて発表した『六喩』だった。日本はフュージョンの黎明期にあり、村上ポンタ秀一、大村憲司、小原礼らと生み出した、変拍子に複雑なフレーズをたたみかけるような楽曲は未知のものだった。そして、76年『スパイラルステップス』でのブレッカーブラザーズとの共演をきっかけにニューヨークの一流ミュージシャンたちと交流が始まり、78年、代表作となった『ON THE MOVE-オン・ザ・ムーブ』に結集する。スティーブガッド・サンボーン・アンソニージャクソンら、錚々たるメンバーを起用してリーダーアルバムを発表できる日本人は深町だけだった。そして同年秋、このメンバーを中心とした日本公演が実現。その録音が『深町純&ザ・ニューヨークオールスターズ・ライブ』として発表され、日本におけるフュージョン・ブームの到来を告げたのだった。

 この公演は、ランディーブレッカーとの1本の電話がきっかけで実現した。深町の人間としての魅力、音楽に対する真摯な態度を通じて、彼らと個人的な結びつきを強くしていったのだ。深町もまた、ニューヨークのミュージシャンのプロ意識の高さに強く影響を受けたという。

 70年代、ジャズが”楽器の電子化”と”他ジャンルとの融合”という形で進化していく過程で、日本では深町をはじめとしたミュージシャンが実験的な演奏を洗練された音楽へと昇華していった。それは多くの聴き手を開拓し、市場を形成し、あとに続く若いミュージシャンを育てた。こうしたムーブメントにおいて深町の果たした功績は計り知れない。
 

『ひとつ成しては次へ 追求し、進み続けた人生』
 

 80年、ひとりで多重録音を完成させた『QUARK-クォーク』を発表。この時期深町のもうひとつの功績は、シンセサイザーの可能性を広げてみせてくれたことにある。当時はまだ、シンセサイザーを既存楽器の模倣音やサウンドエフェクトを合成する楽器として捉える向きがあったが、彼はシンセにしか出せない独特の響きを、わかりやすい音としてポピュラーの楽曲やテレビ/映画音楽などで実践し、テクノ・ポップとは違ったシンセサイザーの実用性を示したのだった。その後、深町は日本の若手ミュージシャンとのセッションの中で、影響を及ぼす一方、89年に洗足学園大学(現・洗足学園音楽大学)音楽学部の教授に就任、シンセサイザー科を設立して、後進の育成に注力した。

 98年の『ミッドナイトダイヴ』と、99年の『シビライゼーション』では版画作品とのコラボレーションを手がけ、2000年代に入ると”春夏秋冬” ”花鳥風月”などをテーマにしたソロ・ピアノの連作を発表。『日本の四季』では「俳句や水墨画のように、蓄積されたものではないその一瞬の感性を尊ぶ」(ライナーノーツより)という日本文化の精神を、即興演奏のスタイルによって実現しようとした。構成的な西洋音楽とは違ったアプローチで、即興演奏による偶然性を作品としての必然性に転化しようとする狙いからだった。

 自身でプロデュースした目黒・祐天寺のカフェ”FJ's” などでのソロ演奏会”キーボード・パーティ”は、じつに118回を数えた。演奏が終わり各テーブルを回って親しげに歓談する深町は、いつも誠実な紳士だった。かつて東京芸大を卒業15日前に退学したエピソードから変わり者のレッテルを貼られ、その才能ゆえに近づきがたいオーラを発していた頃のような印象は、すでになかった。筆者が2008年にお会いしたときは、『QUARK』などの代表作がCD化されないのを嘆いておられた。翌年に状況が変わり、CD発売され、さぞお喜びだったと思う。

 幅広い見解と才能がありながら権威に落ち着かず、何かに帰属することで自身の音楽を正当化することもない。いつも気骨ある態度でピアノを奏で続けた。「音楽には戦争を止める力はない」と断言しながら、あらゆる暴力を憎み、自分の音楽を人のために役立てることを望んだ。何かを成してもその場に長くとどまらず、次にすべきことを常に探している。そうした、表現者としての純粋な探究心を持ち続けた生涯ではなかったか。2010年11月22日の突然のご逝去は、CD発表を2日後に、そしてキーボードパーティ119回目を5日後に控えてのことだった。

 

 CDジャーナル誌  鈴木崇正 

- 2011年1月 CDジャーナル誌より-
 

(敬称略)
 
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